北のフィールドノート

snowmelt.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2006年 02月 26日

オオセッカ発見記

  『オオセッカ発見記』
    それは、『なんだ?』から始まった。        大八木 昭

私が弘前大学の学生の頃、昭和47年のことでした。
教官の奈良先生が『ジープで散歩だぞ』と、『ちょこっと西海岸に行ってみよう』
(青森県では津軽半島から岩崎村方面の日本海よりを西海岸という)と云われました。
6月19日のことでした。

ジープは屏風山ベンセ沼湿原に立ち寄りました。
風の中、草原に突然、コジュリンが現れました。
「先生、コジュリンがこの時期ここにいるのは面白いことですよ」と伝えました。

長野県の霧ヶ峰高原のことは知られているが、
青森県での繁殖は誰も確認していないはずだから。そして今、囀っているのだから。

弘前市に帰ってから、繁殖しているかどうかがどうしても気になりました。
6月25日、今度は一人で出かけました。

五所川原市まで五能線(ごのうせん)という日本一遅いと云われた汽車に乗り、
五所川原に着いてからはバスに乗って、菰槌(こもづち)というところで降りて、
海へ向かって約一時間歩いて、ベンセ沼湿原に到着します。

そこはヒライやケカモノハシやニッコウキスゲなどの生える草湿原です。
大きな沼もあれば、水たまりもある。ヨシも生えている。
草湿原のはずれにはカシワの林。それに防風林としてクロマツの林も見えます。
オオセッカ発見記_e0039759_22103585.jpg

オオセッカ発見記_e0039759_2211355.jpg


しかし、屏風山といってもほぼ全域、見渡す限りというくらいが、湿地の草原です。
草湿原の中に「島」と呼ばれるやや盛り上がったところがあり、
そこだけは乾燥してカシワの木が数本入っているところもあります。

コジュリンを探しました。

いたいた。これはきっと繁殖しているぞ、と考えました。
ずっと見ていました。

そのとき、囀りながら何かが舞い上がった、と思ったらあっという間に草むらに舞い降りたものがいた気がしました。

『なんだ?』

体の向きを変え、鳴いたとおぼしき所をじっと見つめました。
何んにもいない。

ずっとずーっと待ちます。何んにもいない。
コジュリンは『チッチコリー、チッチコリー』と鳴いています。

突然、又、何かが舞い上がったと思ったら舞い降りました。上がるときは囀っていました。

『鳥だ』『なんだ?』

かなりねばりましたが双眼鏡でその姿をとらえることはできず、疑問を残したままその日は終わりました。

『なんだ?わからない』と言うことは、すごく幸せに感じることだと思っています。
どうしてもつきとめてやろう。なんという鳥なのか。

まずは姿を見たい。鳴き方を知りたい。
それから、ベンセ沼通いが始まったのです。ほとんどは最初に行ったルート。

バス停、菰槌(こもづち)で降りて、ゴム長靴に帽子、双眼鏡にリュック、三脚、ちょっと長めの望遠レンズを背負って、てくてくと歩きます。

屏風山のスイカ畑でも、そこを過ぎても全く人影はありません。最後まで誰とも会わない、そんな草湿原でした。

何回か通ううちに双眼鏡でとらえる回数がほんの少しずつ増えてきました。

『鳥の色はほぼ褐色。背中には黒い斑点。尾羽はくさび形。ヨシの茎を斜交い状に登っては囀り出し、囀りながら舞い上がり、大きな円を描いて舞い降りヨシの茂みに消えていく。』『囀りは、ピチュクチュクリ-ぎっ、ピチュクチュクリ-ぎっ、ピチュクチュクチュクリチュクリーと、ぎっという貝殻と貝殻をこすったような音をいれる。』

野帳にスケッチします。
写真になんか撮れない。遠いし、どこから現れるかわからないし。
見れるだけみて、聞けるだけきいてそして本で調べました。

しかし、わからないのです。
保育社の小林桂助の図鑑でわからないのです。当時、この本は鳥を見る人のバイブルでした。
大学の図書館で講談社の清棲幸保の日本鳥類大図鑑を見ても分からないのです。
どれだ、どの鳥だ。なんだろうと探しても分からない。

当時はバードウォチングという言葉より、それ以前の「探鳥」とか「探鳥会」と呼ぶ時代でした。
望遠レンズで鳥を撮る人も増えてきていましたが、鳥の写真本も限られたものしか出ていない時代です。

分からない。思いあまって北海道の日本鳥学会員の恩師の永田洋平さんに、こういう鳥は何でしょうかと聞きましたが、分からない。

それで、ついに手紙を書いたのです。
姿、鳴き声、行動を詳しく書いて、これこれこういう鳥が青森にいますがなんという鳥でしょうか。お教え下さいと。
これを『日本野鳥の会』の本部に送ったのです。

待ちました。
待ちに待っていた返事が来ました。開けてみました。
おー、そこに書いていた言葉。

『残念ながら、分かりません』 

うなりました。そうか、分からないのか。これほど詳しく書いても分からないのか。
よし、自分が突き止めてやる。結局この返事は私にとって幸いなことだと思っています。

図書館で調べるうちに、姿形から二種類の疑いが出てきました。
私が当たりをつけたのは「シベリアセンニュウ」か「オオセッカ」だったのです。
この二種のどちらかだろう。なんと荒っぽいこと。
勿論どちらも青森にはいない鳥、というより「日本野鳥の会」本部でさえ想像がつかない鳥だったのに。

巣の形はオオセッカのほうはフットボール型だろう。シベリアセンニュウの方はわからない。
但し、シベリアセンニュウの卵は斑点のある白色でオオセッカなら斑点のない白色無斑だ。
「卵」が確認出来れば区別がつく。

しかし、その時はもう7月下旬になっていたのです。
北国の鳥の繁殖期にしてはもう遅いのではないだろうか。巣もなにも見つからずにおしまいになってしまうのか。

それからも通いました。夜はいつまで囀っているのだろうかと、こうもり傘改良ブラインドの中で一晩過ごして確かめました。夜は、8時20分くらいまで囀っていました。

そうするうちに、今までとは違う飛び方をするようになったのです。

8月6日
囀らないで水平に飛ぶ。草に隠れてまた水平に飛ぶ。
これはきっと巣があると思いました。
まだ繁殖期だ。
まだ、確かめる希望がもてる。

巣を放棄したら大変です。慎重にブラインドで近寄れる範囲で観察しました。
親鳥はエサを運んで来ていたのです。そして、糞をくわえて飛び立ち爆弾のように投下してしばらくしてまたエサを運んできます。

糞をくわえて出るのだから、雛はまだ巣の中にいる。巣立ち雛を育てているのではない。
これはきっと巣が見つかる。焦らずに慎重に観察しよう。

エサで見えたのは、多くが真正クモの仲間で、その他が昆虫だと記録しました。
囀らないで、エサを運んできて出て行くのはメスの親でしょう。オスの親は出て行くときや、少し離れたところで囀ることがしばしばありました。

8月7日
絶対にあのあたりに巣がある。行ってみたのです。
しかし不思議に巣がないのです。
そそくさと戻ってまた、長いこと観察し、写真も何枚か撮れました。
この写真で判定できるだろうか。

最後にもう一度、巣を探したのです。
そこにそれはありました。全く草に隠れていました。フットボール型の巣でした。
中を覗くと雛がエサをねだるように口をあけました。黄色い口の中に黒の斑点が見えました。次の瞬間ギェッと声を上げ雛は身を縮めました。4つの頭が見えました。

その場を立ち去りました。

8月9日および11日
親鳥の声に対し呼応するかのように雛がチュ、チュ、チュ、と鳴くのが聞こえました。
親鳥はピチュチュチュチュとか、ピチュギッ、ピチュギッとか、チチチ、ギツギッギッといった声もだしていました。
ブラインドから、写真も撮れました。証拠写真として使えるだろう。

翌8月12日
現場に着くと、親鳥が見えません。
かなり離れたところでそれらしい声が聞こえていました。

雛は巣立ったらしい。この草原と草の深さでは雛の姿はもう見えないだろうな。
終わってしまったな。
と、諦めて、巣はどうなったか確かめに行きました。

薄暗い巣の中に、白っぽいものが一つありました。
なんと、卵です。取り出して見てみました。
白色無斑の卵でした。糞がついていました。無精卵だったのでしょう。
そうです、フットボール型の巣と白色無斑の卵は、オオセッカです。

私はこれだ、『オオセッカだ』とここで断定してしまったのです。

記録を書いて、写真をつけて、『分かりません』と手紙をくれた「日本野鳥の会」の本部に送りました。
青森県津軽半島屏風山の草湿原で『オオセッカの繁殖を確認』と。

そうしたら、時をおいて、朝日新聞の記者が弘前の下宿にやってきたのです。本社から来たと行っていました。

『大八木さんの記録と写真を、昔、仙台市蒲生海岸でオオセッカを見つけた竹谷彦蔵さんに見てもらったら、オオセッカに間違いないといわれたと』『36年ぶりの再発見だと』

このことは新聞記事にもなりました。全国版に『オオセッカ36年ぶりの大発見』と。
日本野鳥の会の雑誌『野鳥』(昭和48年1月号)に繁殖記録として掲載されました。

以上が、青森県の津軽半島屏風山のベンセ沼草湿原でのオオセッカ発見のいきさつでした。

あ、コジュリンは8月6日に巣の中に4羽の雛を確認しました。青森県で初のことでした。
(『野鳥』(昭和48年6月号)
オオセッカ発見記_e0039759_22123998.jpg

オオセッカ発見記_e0039759_22135215.jpg

オオセッカ発見記_e0039759_22142537.jpg

オオセッカ発見記_e0039759_2214512.jpg

オオセッカ発見記_e0039759_22151557.jpg

オオセッカ発見記_e0039759_22153028.jpg



--------その後--------

昭和51年には私は津軽半島ではなく、下北半島むつ市の高校で生物の教師をやっていました。
6月、学校の遠足の時むつ市の田園地帯を歩いているとき、一瞬コジュリンが見えました。まさかね、と日を改めてそのあたりを探鳥すると、なんと、コジュリンとシマアオジとオオセッカがむつ市の休耕田にちゃんといたのです。(『野鳥』昭和52年5月号シマアオジ本州初の繁殖記録)

『何じゃい此処にもいるのか。』
おまけに、夏には本州最北の大間町の灯台の見えるところにもオオセッカとコジュリンがいたのです。
むつ市と大間町のこれらの記録は田名部高等学校の生物部の部誌「青苔(あおごけ)」19~21号に記録しています。

津軽半島屏風山ベンセ沼湿原は自然状態の草湿原でした。しかし、車力ミサイル基地に通じる道路が近くを縦貫するようになりました。屏風山地域は乾燥化が進んでいることでしょう。

ホオアカが入り込むような乾燥度の強いところではオオセッカは生息しません。

むつ市と大間町の場合、一度水田として使った場所でした。
かつては休耕する田は年により、持ち主により異なっており、火入れをしたり放置状態であればオオセッカにとってよかったのですがいつのまにか水田でも、休耕田でもない牧草地になっていきました。

昨(平成17)年も春にオオセッカがやってきて、フライトソングをする二羽を見ましたが、夏になると牧草、雑草を刈り払い牧草ロールにしてしまうので、ヒナの大半はロール巻きにされてしまっているでしょう。

シマアオジとコジュリンはかなり前から全く見られなくなってしまいました。

ヨシが生えるところは水の多いところです。囀りのために草丈の高いヨシの草原は必要です。しかしこういうところには巣を作りません。
草丈の低い、ヒライやスゲ類のあるところに巣をつくりそこからエサをとり育雛します。
草丈の高いヨシ原から草丈の低い草原が必要な環境なのです。

三沢市の仏沼(ほとけぬま)干拓地は最後のオオセッカの生息地でしょう。
乾燥しすぎず、水辺ヨシから低草原までの高低環境を人為的につくってやるのがオオセッカやコジュリンやコヨシキリなど湿草原にすむ鳥たちに望ましい環境だと思います。

--------------------------------------
2006年2月26日 -ラムサール条約登録をうけて- と云うテーマで NPO法人 おおせっからんどが主催し「仏沼(ほとけぬま)とオオセッカの未来のために」というシンポジウムが三沢市公会堂でおこなわれました。
以上はその時の私の分の覚え書きです。

by snowmelt | 2006-02-26 22:21 | オオセッカ | Comments(12)
Commented by Celastrina at 2006-02-28 23:46
大八木さま
すばらしい「覚え書き」ですね。
いきものたちをみつめる真摯な姿勢に頭が下がります。
Commented by snowmelt at 2006-03-01 00:29
Celastrnaさん、読んでくださり、ありがとうございます。情報のない30年も昔やそれ以前は、今よりワクワクとたのしいものでありませんでしたか。わたしは現代に生きる人は、幸せでもありまた一面不幸でもあると感じてます。
現代は情報がありすぎて、正しいのかそうでないのか判断がつきかねることがあったり、あるいは教科書に書いているからそれだけが正しいという人が大半で、例えば県の高校入試問題では毎年、いらだっています。
昨年の理科のルーペの使い方、双眼実体顕微鏡のこと、今年の太陽の黒点移動の図といい中学の先生は誰も異議を唱えないのでしょうかね。出題者の頭はどうなっているのかと疑っています。歳をとるとテレビにも文句をいうので、妻からは「うるさいね」とたしなめられています。私は本来無口なんですけどね。
Commented by Celastrina at 2006-03-03 00:04
たしかに、情報の少ない昔は夢がありましたね。
その夢を追いかけ続けることそのものが幸せだったのだと、今では痛感しています。
もちろん、まだまだ夢を追い続けたいと思ってはいるのですが・・・・・・

Commented by ぽんぽこ at 2006-03-03 10:02
snowmelt さん はじめまして 確かチョウチョさんのブログでお見かけして、少し前から読ませいただいたいていました。北のフィールドノート素晴らしいです。
私はまだ青森までいったことがありません、シマアオジが繁殖していたのですか。フィールドから、住民が消えていくのはさみしいことでしょうね。とても楽しく、また切ない気持ちで読みました。
時間をかけて自分のからだで検証されていった経過、わたしもその場にいるようでした。ヒナたちは、お母さんだと思ったのでしょうね(^∇^)私も一生に一度でもいいから、そんなシーンに出会いたいものです。ところで、「こうもり傘改良ブラインド」どんなものなのか気になります。
Commented by snowmelt at 2006-03-03 22:22
Celastrinaさん、いつか会ってお話したいですね。海外へ出て行くその行動力の源はCelastrinaさんの夢なのですね。
Commented by snowmelt at 2006-03-03 22:38
ぽんぽこさん はじめまして。私もぽんぽこさんのことはチョウチョさんのところで知り、じいちゃん先生が旭川かー、同郷だな(私は弟子屈)ーとなにかしら関係ないだろかなどと思っていました。それにしても隊長さんの職は何だろ。
>「こうもり傘改良ブラインド」
とは改良というより、こうもり傘に端布屋からなるべく迷彩色ぽいものを買ってきてぐるりと縫いつけてテントの様にして、めくりあげ式のぞき窓をつけただけです。真夏のかんかん照りにこの中に入っていると、強烈サウナでした。
Commented by ぽんぽこ at 2006-03-04 07:56
snowmeltさんおはようございます。じいちゃん先生は道北地方で小学校の教員をしていました。snowmeltさんも先生なのではないですか?
弟子屈!つい最近、中標津を経由して、野付・根室・釧路をじいちゃんと旅してきたばかりです。いいところですよねえ。
隊長は少年時代を金山で過ごし、生き物をおっかけて育って、いまもそのまま・・といった風情です。「海洋生物学者」になりたかったそうですが、ぜんぜん違うお仕事につきました。
こうもり傘の下で大汗をかいている様子を思い浮かべ、楽しくなりました。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
Commented by snowmelt at 2006-03-04 21:46
ぽんぽこさん、こちらこそどうぞよろしくお願いします。じいちゃん先生にも隊長さんにもよろしくお願いします。
Commented by tintin at 2010-01-08 10:37
昭和51年。私の産まれた年。
車力村。私の祖母が産まれた村。
五能線。新幹線が発達し、TOKYOでは5分も待てば次の列車が来て、1時間でそのTOKYOにも着くというのに、実家の深浦まで1時間以上かかる。未だに列車の本数は少ないですし、一本逃すと予定が狂い、まさに「一日がかりの旅」をするはめになる。そんな「昭和」な世界の中、この津軽を走り回っていたんだろうなぁと想像して、何だか嬉しくなっていました。

突き動かし続けた「なぜ?」という疑問が、根気がすごい。
 
前に少し、生の語り口で聴いたことがあったような気がしましたが、
こうして文章にしてまとまったものを読んでみていると、圧巻ですね。
探求心の固まりとなって広野を駆けめぐる姿。
陰気でのそのそと動く列車が待ちきれず、生活に追われてイスに座っている他の乗客達とは意を異にする姿がありありと伝わってきます。
いいですね。
また、記憶の断片を残して書いて下さい。

Commented by snowmelt at 2010-01-12 11:46
tintinさん、はじめまして、読んでくださってありがとうございます。
書き残すこと、努力します。
Commented by タンタン at 2010-01-16 23:07
実は、私に敬語を使う必要はないのですよ^^。
お久しぶりですの人物なのです。
こちらこそ、これからも楽しみにしてブログを拝見させて頂きつつ、コメントさせて頂きますので、どうぞ宜しくお願いします。
あまりにいっぱい分類して紹介されている内容の濃いブログなので、まだ全部を読み終えてないのですが。その博識ぶりに改めて、家族共々、驚いてます。

Commented by snowmelt at 2010-01-17 21:23
33歳でお久しぶりというのはなかなかわかりませんね。
この頃更新していないのですが、元気で、生きていますので、
また、新しい記事も追加します。
おつきあいよろしくお願いします。


<< オオハクチョウ      カワアイサ >>