北のフィールドノート

snowmelt.exblog.jp
ブログトップ | ログイン

<   2017年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧


2017年 09月 22日

淡水魚山渓谷ポケットガイド17・図鑑のすべてを信じている人への忠告、特に子供へ

                                               下北自然学巣 大八木 昭

一般人は一応、科学の教科書や図鑑は、ほぼそれほどの間違いはないだろうという目で見ているだろう。

まだ、不明であると書かれていればそれは正しい事のほうが多い。

わかってもいないことをわかったように書いているのがはなはだ毒害になる。

それを読んだ子供や、大人がウソでもなんでもそれを信じてしまうからだ。

ここに

「ヤマケイポケツトガイド⑰淡水魚 森文俊、内山りゅう、山崎浩二 山と渓谷社」

の間違いを指摘して、子供達に誤った情報を流し続けないようにしていただきたいことを願う。

ブラキストン線は絶対だという誤った考えの人への忠告も含まれる。

「ヤマケイポケツトガイド⑰淡水魚 森文俊、内山りゅう、山崎浩二 山と渓谷社」2003年4月10日2版第2刷発行の129ページ

『エゾホトケ 北海道に分布するホトケドジョウの仲間。①移植により青森県にも定着しているが、ホトケドジョウとの交雑が心配されている』
 
この時点で、これについての①についての誤りひとつめ、良識的な図鑑では「自然分布なのか人為移入なのか不明である」というのが良識的なものである。 なぜなら不明だったのだから。

青森県では移植があったと推測して言う学者?もいるが---なら正しいが断定したのが誤りだ。

そして、ふたつめ、さらに続けて「ホトケドジョウとの交雑が心配されている」とは何を言っているのか、著者たちは自己矛盾を感じていないのか。

その前の128ページのホトケドジョウの文にはなんと書いてあるか「①分布 本州(青森県を除く・・・・)」と書いてあるのですよ。エゾホトケは青森県北部で止まっているしホトケドジョウは山脈があり岩手県を出ることはできていない、それをなんで交雑が心配されていると、3名のなかの誰が考えたのか他の現状を知らない誰が考えたのか、アホらしい。

この9月にブラキストン線を越えた淡水魚としての論文がやっと認められました。


おかげさまで今回、記事に出しましたが、日本魚類学会の Ichthyological Research の電子版にやっとでました。
Phylogeography of the eight-barbel loach Lefua nikkonis(Cypriniformis:Nemacheilidae):how important were straits in northern Japan as biogeographical barriers?エゾホトケドジョウの系統地理:北日本の海峡は生物地理学的障壁としてどの程度重要か?
青森県のエゾホトケドジョウは在来集団です。「自然分布なのか人為移入なのか不明である」といわれつづけてきたことを2017年9月をもって「本州のエゾホトケドジョウは自然分布である。」と遺伝子を解析した結果の科学論が認められたということなのです。

青森県のレッドデータブック2010年改訂版までは「青森県のエゾホトケは北海道岩見沢から移植によるという論文、(これは聞き取りという推論だけのもの)もあるので」「国内移入種は除外する」という方針なのでレッドデータ種には入れないとある魚類学者が言い張るので青森県のRDB種にも上げられず、そうしているうちに消えていった場所もあるのですが、(国内環境省のRDB種ではあるのですがね。)今、青森県では県RDBの改訂作業がすすんでいます。 国内移入種だからダメ、ダメダメとはね除けられてきたけれど、今度ばかりはそうは行かないのではないでしょうかね。しかし疑問ですねそうするかどうかは。

下北ジオパークについてもこれは大きな問題です。アホかと思えるブラキストン線の解釈をしたままですので。

なんにしろ、間違ったことをただしていくのが必要だと思うのであります。                                    
                                                  

by snowmelt | 2017-09-22 17:21 | Comments(0)
2017年 09月 10日

エゾホトケドジョウの系統地理:北日本の海峡は生物地理学的障壁としてどの程度重要か?

エゾホトケドジョウの系統地理:北日本の海峡は生物地理学的障壁としてどの程度重要か?という論文について
                                    
                                                  下北自然学巣 大八木 昭

おかげさまで今回、日本魚類学会の Ichthyological Research の電子版にやっとでました。

Phylogeography of the eight-barbel loach Lefua nikkonis(Cypriniformis:Nemacheilidae):how important were straits in northern Japan as biogeographical barriers?

というものです。紙の英文版は2018年の最初の巻らしいです。それには和文抄がついています。それらは別刷りをもらえます。

今の段階では英文電子版pdfだけです。

どうやってたどるか 『魚類学雑誌(英文誌)』で検索すると次が出ます。
e0039759_21165662.jpg


画面のところをクリックすると
e0039759_21183178.jpg

画面のてころをクリックすると今9月なら次が出るはず
e0039759_21204121.jpg

で画面の所をクリックしてAbstract が表示されるという手はずです。この下線部をクリックしてもいいですが
e0039759_21573173.jpg


こちらの論理は調べたところの青森県のエゾホトケドジョウは在来分布であるという意見であります。

和文のほうがいいという方のためにすこし--日本列島の多くの海峡が生物地理学的障壁として提唱されているが,陸上および淡水生物の分散においてそれらがどの程度の障壁になったかは,今もなお論争がある.北日本に生息するシベリア由来の純淡水魚エゾホトケドジョウのミトコンドリアDNAハプロタイプを解析したところ,本種の地理的分布域内には明瞭な遺伝的構造が見られたが,2つの主要ハプロタイプは,北日本における生物地理学的境界として有名な石狩低地帯と津軽海峡を跨いで分布していることがわかった.また,これら2つの主要ハプロタイプは1塩基の違いのみで互いに分かれており,石狩低地帯および津軽海峡以南に分布するハプロタイプも含めた多くのハプロタイプが,これら主要ハプロタイプから分岐していることもわかった.これらの事実は,主要ハプロタイプの急速な分布拡大と各地域での遺伝的分化を示唆する.本州の同属種ホトケドジョウの中部山岳地帯の隆起による隔離を較正点として分岐年代推定を行ったところ,エゾホトケドジョウの北海道から本州への分散は8~19万年前以降と推定され,津軽海峡にはリス氷期に陸橋が形成されたことが示唆された.その他の淡水生物が津軽海峡を渡った時期はそれよりも古い年代(更新世中期)とされていることから,津軽海峡には陸橋が繰り返し出現したと考えるのが妥当である.にもかかわらず,エゾホトケドジョウは本州の北部にまでしか侵入しておらず,その他多くの淡水生物もこの地域に分布域の境界をもつので,仮に津軽海峡が存在しなくとも,そこに動物相の移行帯は形成されたかもしれない.このように,北日本の海峡や低地帯の淡水生物の分散に対する障壁としての重要性は,現在考えられているよりもかなり小さいのではないかと我々は考える.--というようなことなのです。

ICREに受理掲載されたと言うことは Now, the nativeness of Honshu Lefua is scientifically supported. : K.Y.ということなのであります。

これとほぼ対立する論文はこれです。←ここをクリック

by snowmelt | 2017-09-10 21:42 | Comments(0)
2017年 09月 09日

青森県のエゾホトケの分布は移植によるものか、事実確認のない論文を検証する。

青森県のエゾホトケの分布は移植によるものか、事実確認のない論文を検証する。
 
                         下北自然学巣  大八木 昭

当該論文はこれである。
日本生物地理学会報第48巻第1号1993年7月31日
青森県におけるエゾホトケの分布および二,三の生態学的知見 竹内 基・太田 隆

Bull.Biogeogr.Soc.Japan48(1):73-80.July 31,1993
Distribution and a Few Ecological Aspects of Lefua costata nikkonis (Cobitididae)in Aomori Prefecture,Japan Motoi Takeuchi and Takashi Ohta
73ページのみを示す。まずAbstractを示す。
e0039759_2131710.jpg

読みやすいように、分布に関しての部分を拡大し下線を引いたものを示す。
e0039759_21321461.jpg

下線部で
『一町田のエゾホトケ個体群は北海道岩見沢からの移植であると決定した。目名の個体群については不明である。しかしながら地史的なあるいは生物地理的な事実から判断すれば目名の個体群もまた同様に北海道からの移植であるように思われる。』と書いてある。
 Abstract しか読まない人にしてみれば
青森県の岩木町一町田のポピュレーションは北海道岩見沢からの移植と決定し、東通村目名のポピュレーションも同様に北海道からの移植と思われる。
だから、『本州におけるエゾホトケは移植によるもの』という意見がほとんどになってきて、『自然分布か人為分布かはっきりしていない』という意見や記述はなくなってきているのが現状である。
ここで、和文ではどのように書いてあるのか、なぜ『岩見沢からの移植と決定した』のか、和文を読んだなら何を根拠としているのか聞き取り調査というものが本当に存在したのか、証拠を確認したのか、なぜ林崎や藤崎町のエゾホトケを除外しているのか等を検証してみることが必要ではないかと感じるわけである。


(基本知識として、)
地名の読み方について、一町田はいっちょうだ、賀田はよしだと読む
単にドジョウとあれば食用のドジョウである。エゾホトケは鼻孔にフタがないので、泥に潜って暮らすことは絶対になく、生態も形態も全くドジョウとは異なるものである。体長は2センチから5,6センチと小さい。採ってきてから4年間飼育して7.6センチとなった経験はある。野外での最大のはオス8.0センチとメス10.5センチとであった。非食用である。ドジョウ業者はドジョウの中に混じっていれば選別して捨てるらしい。

分布に関するところを抜き出してみます。
76ページのところです。
e0039759_21342627.jpg

竹内基らの文を番号付けしてみる。
①『一町田では1973年頃に藤崎の仲買業者が北海道の岩見沢あたりから大量のドジョウを仕入れ水田に蓄養したという事実を確認できた。』
②『その後出水によって殆どのドジョウが水路に逸出してしまい、蓄養池そのものが放棄されたようである。』
③『これらのドジョウの中にエゾホトケが混じっていた可能性が極めて大きい。』
※Abstructの中ではThe population of L.c..nikkonis in Ichoda was determined to be transplanted from Iwamizawa, Hokkaido in the early 1970's.としている。『岩見沢あたりから』ではなく『岩見沢から』である。ドジョウに混入のニュアンスもない。英語しか読まない人には正しい情報は得られない。
④『一町田でのエゾホトケの分布はかつてその蓄養池のあった場所より東側(下流側)である。』
さてそれぞれについて検証していこう。
①で断定しているところは『事実を確認できた』というにも関わらず、聞き取り調査なのに誰に聞いたといっていない。これでは、事実を確認できたと言うものではない。
では、他の部分も含めてだれから聞いたか想像するしかない。
 藤崎の仲買業者から聞いたとは書いていないがそれらしく臭わせていることはある。
 ただ『一町田では』--これを一町田の地区での聞き取りではと読ませれば、藤崎の仲買業者以外の誰かそこら辺にいた人となるだろう。もしも仲買業者から聞いたのならば、コメントはほとんどあいまいであり竹内基も含め憶測だけでの聞き取り調査の価値は皆無である。
後段に、『またドジョウ採集者によると』とあるので、この『ドジョウ採集者』から聞いたのかともとれる。
もうひとつ『一町田では』--これを一町田地区の歴史ではと読ませれば藤崎の仲買業者以外の誰か一町田の歴史を知る人となるであろう。
②は誰の推測だろう。いずれにせよ憶測だ。
③これは竹内の推測だろう。つまり推測だ。これについては自由な推測で良い。
①と②での単語の違いについて①『水田に蓄養が事実』が②『蓄養池』にしたのは意図が感じられ、単に言い換えただけとは思えない。 
①②③についての結論
②と③は憶測と推測である。③については文句はない、よしとする推測である。
しかし憶測と推測と①だけで誰から聞き取りしたかを書かずに『事実を確認できた』とよく言えるものだ。事実は皆無ではないか。ファクトがないというものだ。
①の水田を②で蓄養池と呼びかえて④の蓄養池に誘導しているように感じる。

さて④について
ファクトがないはずなのに断定している部分は、意外なことに④『一町田でのエゾホトケの分布はかつてその蓄養池のあった場所より東側(下流側)である。』と言い切っている点だけである。
なぜ、蓄養池のあった場所が断定できるのか。そこは聞き取りしたとは書いていない。
(出水したからとはいえ蓄養池から、池から水路を経てほとんどのドジョウが逸出するということは考えられるのかの疑問は出てくるがそれは置いておいて。)
この論文の致命的な点は事実確認がないことである。証拠を示すことなく判定ができるのか。勿論、ないことを証明せよという『悪魔の証明』ならできない。
しかし、この場合は、蓄養池は西側にあったというのだけで、その位置はこことでも示さずに、つまり事実確認(聞き取りならば、情報を提供した人が誰で、作り事で言ったのか、何を根拠にして言ったのかさえわからないまま)がないことを『事実を確認した』という竹内基を誰かが信じるといっても、常識人なら信じない。

さて、1973年編集1975年修正の5万分の一地形図がありました。
図で示します。
e0039759_21363419.jpg

e0039759_21374918.jpg

水路の線は7時か8時の方向から流れはじめ、ほとんど1時の方向へと流れていきます。
一町田の水路の上流部には蓄養池といわれるような池はありません。
もう一度いいます。竹内の断定文④はまずひとつ『蓄養池』はウソであると判定します。
百歩譲って『水田に蓄養』します。しかし、せっかく、北海道の岩見沢あたりから買い入れた大量のドジョウを泥田の中に分散させて、一年か二年おいてから、それをまた捕獲するような田んぼはあるのですか。地図をみれば水田の記号だけでしょう。稲作をやりながら、刈り取り後も水をいれたままの大量のドジョウ蓄養は常識外で考えられない。
西側(上流側)に蓄養池あるいは蓄養水田があるというのは全く考えられない。竹内は『蓄養していた水田は出水によってほとんどのドジョウが水路に逸出してしまい・・・ようである。』とは書いているのですがこれも推論。
従って④の断定文も、根拠もファクトもないものであると結論します。

①②③④でどこにファクトがありますか。ないのです。すべて『らしい』という推測にしかならないのです。
これをもとに学者達は本州のエゾホトケは人為分布によると結論づけているのです。国立環境研究所・生物侵入データベースを見て下さい。青森県は真っ赤で『移入分布』だと決めているのです。『在来かどうか不明』でもないのです。


一町田の地図を見てみなさい。一町田に実際行ってみなさい。
現在ウェブにでている地図ですが見てみましょう。
e0039759_21405191.jpg

細い青い線が水路です。直線的なのは水田等で人工的に掘ったり、つくったりした水路だからです。もと池があったなら、そこは直線的にはならないのです。つまりもと池があって流入流出線が乱れているところが見当たりません。つまり池などなかったと言うことです。前出の地図と比べると、黄色いカーブのない新道ができたことがわかります。
1975年頃の一町田のまわりは一町田から新町、深山の三角並び部分が増えたようでそこ以外の田んぼはたいして変わっていないようです。

 1999年7月22日に当時弘前大学教授の奈良典明先生と、元弘前市水族館職員との3人で一町田でエゾホトケを探しに行きました。その時は5万分の1地図も持って行かなかったので正確な位置はわかりません。水田の縁の水路で採集できました。
1999年当時はこんなに家並みはなかったと思います。ただ、元弘前市水族館職員の案内で行ったのですが、『ああ、一町田の芹田(セリの田んぼ)だろ』と連れて行ってもらったのです。しかし、セリの田んぼではありませんでした。でも7月22日なのに水稲水田ではなかったと思います。コンクリート枠の入っていない、浅い素掘りの自然水路でのみ採集できたので、何が栽培されていたか意識できなかったのです。
 それ以後、2015年までに7回前後、一町田周辺を今度は一人で、歩き回りましたが全く採集はできませんでした。
それで、分かったことは一町田地区の西側の二本木(にほんぎ)では最近まで芹田と言われるところがあったようです。以前は実際に湧き水が流れ出していてセリが植わっていました。下北ではエゾホトケはこういうところ(私には冷たい水の感じ)に良くいるのだがと思い網を入れて探しましたが採れませんでした。さらに2015年には二本木の南脇の水路の様式が変わってしまい、湧き水を利用している風は見られず、セリも植わっては居ませんでした。二本木で会った農具をいじっていた人にエゾホトケの事を聞いても、そんなのは知らないな、素掘り水路はほとんどないが、そういう魚がいそうな水路を教えるから行って見ろと言われて、さらに、『待ってろ案内するから』と連れて行ってくれました。しかしそこで網を入れても採れませんでした。
二本木のその人に、万が一そんなのが『3-6㎝でヒゲが8本あって、尾鰭のところにくさび型で黒いのが入るか、体に沿って真ん中に一本黒い線があって尾鰭のところでくさび型が入るかだからと写真を見せて説明したら』よく聞いてくれて、その人は『見つけたら電話するよ』と言ってくれたので電話番号を教えてきましたがその後全く連絡はありませんでした。

さて、時系列で考えると論理があやしいということがでてきます。
ただし地理と時間がわからないと気がつかずに欺されます。

竹内 基らの上の論文の部分のところをまとめてみましょう。
竹内 基らが述べていることを箇条書きにしましょう。
Ⅰ、1973年頃、一町田の西側(上流側)で岩見沢から大量のドジョウの蓄養が行われた。
Ⅱ、1978年頃からエゾホトケが多く採れるようになったらしい。
Ⅲ、1981年に一町田で50匹くらい採れたのはエゾホトケが増え始めた時期と一致する。
Ⅳ、また県内で採集されたり、北海道などで買い付けられたドジョウの一部がこの仲買業者の所に集められ、出荷に際して選別が行われ、エゾホトケは近くの用水路に流されているという。
Ⅴ、松宮(1974)が採集した場所はその用水路の下流なのでこれらのエゾホトケの生き残りが少数繁殖したものと思われる。
Ⅵ、以上のことなどから一町田のエゾホトケについては移殖によるものと判断してよいだろう。

Ⅰ~Ⅵまでを時系列に並べるとどうなりますか。
そうです次の順番です。

Ⅳ、また県内で採集されたり、北海道などで買い付けられたドジョウの一部がこの仲買業者の所に集められ、出荷に際して選別が行われ、エゾホトケは近くの用水路に流されているという。
Ⅴ、松宮(1974)が採集した場所はその用水路の下流なのでこれらのエゾホトケの生き残りが少数繁殖したものと思われる。
Ⅰ、1973年頃、一町田の西側(上流側)で岩見沢から大量のドジョウの蓄養が行われた。
Ⅱ、1978年頃からエゾホトケが多く採れるようになったらしい。
Ⅵ、以上のことなどから一町田のエゾホトケについては移殖によるものと判断してよいだろう。

Ⅵの結論でなぜ、Ⅴで松宮(1974)のものを、これらのエゾホトケの生き残りが少数繁殖したもの思われるとしながら、移殖によるものと判断しないのでしょう。

Ⅳの時期はいつでしょう。1974年以前でないと行けませんね。厳密に言えば1973年7月に林崎の水田の水路と藤崎新町の用水路でエゾホトケを採っているのですからそれ以前、1973年以前に県内からだけでも、県内と北海道から、あるいは県内だけからでも移入しなければならないのでしょう。

林崎と藤崎でとれたエゾホトケの起原を明らかにせず に1981年一町田でとれたエゾホトケは北海道からの移殖とだけいうのははなはだおかしい。

次に松宮(1974)林崎と藤崎の何処で採られたのかなど採った本人からなどの情報を見せましょう。
まず一町田と林崎、藤崎の位置関係から
e0039759_21443592.jpg

そして林崎で成田悟、成田徹両君が林崎で採ったところを赤丸で示します。松宮君のはまだ藤崎新町としか確認できません。当時は、特段の目的がなければ自然分布であろうと中村先生が言ったとは書いています。
(林崎の赤丸は直接成田徹様に打っていただきました。ありがとうございます。)
e0039759_21481471.jpg


竹内らは次の推論に反論できるか。『県内で採集されたり』集められたその中にエゾホトケが入っていて用水路に流されたものが林崎の水田水路と藤崎の用水路で採られたという推測も成り立つのではないですか。これに反論できる者がいますか。
竹内らはファクトがないと言われてもしかたがないが、林崎と藤崎のものについては県内起原・北海道起原どちらも推測できるというべきでしょう。

Ⅴでなぜこの行にこのことをもってきたかと言えば、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳと来てⅤとくれば、ふつうの人は、1973年頃一町田に入れた、逃げた、増えた。県内や北海道から藤崎の業者に集めた。用水路に流した。それを松宮が採ったと勘違いするでしょう。

しかし1973年7月に林崎と藤崎で採れているということに気づけば、県内から集められたドジョウの中にエゾホトケが混じっていたかもしれないでしょう。あるいは一町田で獲ったドジョウのに、それこそ北海道からの移入のエゾホトケが入っていたかもしれない。また県内在来であったエゾホトケかもしれない。断定はできないのです。
しかし、竹内らは『松宮(1974)が採集した場所はその用水路の下流なのでこれらのエゾホトケの生き残りが少数繁殖したものと思われる。』とだけいっているのです。『これらのエゾホトケ』とはドレラ。? 1974年にはすでに下北半島田名部大曲地区でエゾホトケを確認しています。ドジョウを獲る金網ドウも仕掛けられているのを確認しています。もしも下北半島産のドジョウが藤崎の仲買業者のもとにあつめられ、そのドジョウの中にエゾホトケが入っていたという可能性は否定できないでしょう。考えてもみなさい、ドジョウを集めるのに県内を飛びこえて、わざわざ北海道にまで買い付けるという考えはまともでしょうか。まともでなくてもいいのですけれどね。

竹内らが、なんのファクトもなく『一町田のエゾホトケは岩見沢からのもの』とだけいい、林崎、藤崎のものには言及したくないのがみえますが、ただ、竹内らのファクトのないこの論文があるために青森県のエゾホトケは『人為移入だと決めつけられて』居るのです。

もう一度いいますが、これをもとに学者達は本州のエゾホトケは人為分布によると結論づけているのです。国立環境研究所・生物侵入データベースを見て下さい。青森県は真っ赤で『移入分布』だと決めているのです。『在来かどうか不明』でもないのです。

2014年、下北半島東通村のおじいさんからドジョウのとりかたを伝授されたという若者(30代ぐらい)に出会ったとき、若者は『これ(エゾホトケ)は絶滅危惧種だから獲るな』『そこに仕掛けをかけるな』と忠告されたとき、嬉しいと思ったね。ドジョウは獲るけれど、エゾホトケは獲らないということをも、おじいさん(他人)から伝授されていたのですから。
ちなみに青森県のRDB(レッドデータブック)には、移入種だからという判断で掲載されていないんだよ、青森県では絶滅危惧種ではないんだよ。私は自然分布だろうと思ってそれを調べているんだよと教えると、先ほどの忠告にもかかわらず、そこらに仕掛けをかけるといいよと許してくれました。
 次の日、仕掛けを回収にいくと、私がかけた仕掛けにはエゾホトケは入っていませんでした。
ところが私の水の中の仕掛けに、不思議に穴の空いたペットボトルがくくりつけられていました。中にはなんと生きたエゾホトケが入っていました。共同研究者とともに、『あれあれ、昨日出会った若者が、エゾホトケを確保していてくれたんだ』と感激したことがありました。研究は現在進行中。しかし一応ICREに受理されました。それはこの後。

by snowmelt | 2017-09-09 21:49 | 淡水魚類 | Comments(0)
2017年 09月 04日

青森・下北のアイヌ語地名 糠部郡宇曽利郷 の 宇曽利 とは 芦崎 とは

                                              下北自然学巣 大八木 昭

八戸市の馬淵川あたりから北方は外ヶ浜あたりを含んで糠部郡(ぬかのぶぐん)と云った。

そして下北半島には宇曽利郷(うそりのかう)と呼ぶ所があった。そのうそりのこうを考察してみる。
 
e0039759_19274034.jpg


北奥路程記をみれば位置関係がわかる。
この巡視記録は江戸後期の盛岡藩士が記したものなので、宇曽利郷の後世の姿ではあるがそれを読み解いていきたい。

e0039759_19282489.jpg

 この写真は釜臥山(路程記の中でもこの名称が使われている)から撮したものである。
北奥路程記の行程は、この写真では奥の海岸伝いに近づいてきて、この地域に入ると左から右へと進んでいく。

「大平村中右に金比羅堂・願求院・神明社、大平より六百七十五間行きて、但し、安渡村入口へは二百間なり、」


解説してみよう。写真左方から、大平は「往昔大鍋平というた。蝦夷語のオ・ナム・ペ・タイ川尻の冷たい水のある木原の意に出づるのである。荒川の水をひいて飲料とした。(中略)旧舘跡があり、巣鷹城、または尻高城とも書かれ(中略)踏査したるにりっぱなチャシコチであった。竹花某はおそらく日本名の酋長であったろう」下北半島史・笹澤魯羊

 むつ市立大平中学校の校歌には「巣鷹ヶ丘」という歌詞がはいっている。荒川は大荒川なのか小荒川なのかはいまは不明である。江戸時代には大鍋平が大平村になって願求院もあったと解せる。

そして写真右へ(西へ)行くと安渡村にはいる。

「安渡村長き町也、海際にて繁昌のところなり、」

安渡村は長い。

「安渡村の後ろは釜臥山、前は入海、芦崎と云ふ松立の出崎あり、気色はなはだよし」

「安渡より五百弐十一間行きて、川守田村」「是より五百八十間行きて、浦(宇田とも)、家」

「川守田村中小川弐ツあり、川守田川小川なり(中略)但し、右へ入り、城ヶ沢への山道もあり。右(ママ)はすべて海辺道なり」


川守田村は現在は「川守」である。
また「浦(宇田とも)」の起源はota オた 砂浜である。
宇田のところに砂浜があったと解せるし、対岸には沿岸流により砂の堆積した芦崎という砂嘴がみられる。

補記2017.09.04:芦崎の語源はアイヌ語のmoy・ asam,モやサムかmoy・a-sam モイアさむ 湾底;(湾・入江・沼・洞窟などの)奥という意が由来と考えられる。をもう一度考え直しました。

芦崎は北奥路程記では芦崎だが、他に足崎という表記もみられる。

地形的にもアイヌ語的と考えることができる。

『アイヌの考え方による。川の右岸と左岸は和人とは反対である。和人は川は海へと流れるものだから海に向かって川の右岸、左岸という。

アイヌはだいたい海に近い川尻に住むことが多かった。だから、川をさかのぼって行くものなので、山に向かって右をシモンsimon(右)、左をハルキharuki(左)と呼ぶ。』

生活圏からみての右・左ということである。だから、湾の奥といえば、生活圏の川尻からみての奥の端に砂嘴があるのでそれを奥・アサムと呼び、それがアシになり「芦」や「足」になったというのが私の解釈である。などと書いたが、棒線部のこれは撤回する。

理由は、北海道のモイアさむ・モやサム示す説明は(山田秀三・アイヌ語地名の輪郭)はどうみてもへこんだ方を湾底というらしいからです。

そして、まさに『 ホアシ ho-ashi-i (<山の>尻・をたてている・もの、岬)』という説明があったのです。
さらに、『先の方が少し高くなっている岬をいう』とまであるのです。

芦崎をもう少し見てみましょう。
砂嘴部分をみわたし
e0039759_19473994.jpg

やや見下ろし
e0039759_19482086.jpg

水平にちかくまで視点をさげると
e0039759_1949527.jpg

という訳なのです。

岬は尻をたてている・もの あるいは尻を水につけている・ものなのです。

北奥路程記の地図は一番へこんだ所が切れています。

江戸時代は切れていたのでしょう。つまり尻の前の背中の部分が水につかった状態だったのでしょう。

砂嘴のでき方は最初は連続してできても波浪の状態でまた切れたり、つながったりしていたのではないでしょうか。

今は外側だけコンクリート護岸しているので途切れることはないのでしょう。

これで、やっとホアシから芦崎になったのではないかとの確証をいまのところ得たと思っています。-----ここまで補記



青森県立大湊高校の校歌は「芦崎の波しずまりて」ではじまる。


e0039759_22565720.jpg



 ここで、川守田の語源をアイヌ語で考えてみる。

何故かというと大平村からウソリ村まで、すべてアイヌ語であり、他より小さな小川しかないのに川守田とここだけ和語とは考えられないからである。

 では、川守田の地形位置とはどう云ったら的確なのか。

川守田の位置は・芦崎のちょうど先端・の対岸にあたる。

つまり、和人風にいえば湾の入り口の敷居の位置、アイヌ人が云えば湾からの出口・あるいは湾の・底の位置である。

であるから kama・moy-asam・ta カマ・モやサム・タ・ 上を越える・湾の(底)・そこに、あるいはカマモイアサムタを川守田の漢字で表したはないかと想像している。(補記2017.09.04ここももう少し考えが違うかもしれないがkama・moy・taという用語はまだ見つけていないのでこれではないのだろうかとも何とも言えない状態です。川守田村は点ではないと考えればkama・moy-asam・ta カマ・モやサム・タ・ 上を越える・湾の(底)・そこに、でいいのではなどとも考えられるし)

宇田からは
「この道筋、小堰、小川数々あり、右の方ひきあがり ウソリ村・安渡 ・ 城ヶ沢の界川云ふて、橋四間半の小川あり、此処まで入海の所、是より陸地野平または畑、杉立、ひだりは松林の道を行きて城ヶ沢に至る、」

ここでウソリ村が出て来る。
絵図の中には「宇曽利」と書いてある。これがアイヌ語のus-or・ウそル(ウしょル)(カタカナひらがなまじり表記のアイヌ語はひらがなのところにアクセントがあります)湾・湾内であり、ひろく宇曽利郷と呼ばれるに至った発祥の地であると考える。

橋四間半の小川が河川の宇曽利川であろうし、安渡村および宇曽利村と城ヶ沢村との境界の川ということと解せる。水が必要そして宇曽利川の川尻を生活圏とした宇曽利の蝦夷が居住したと考える。

宇曽利村名は現在は「宇曽利川」という地区名で呼ばれている。

e0039759_214938.jpg
                                                       (宇曽利川の川尻から奥を見る)
 


「天喜五年(西暦1057)源頼義が奥州の豪族、安倍頼時征討に下った際、宇曽利郷((らの蝦夷の助勢・(夷をもって夷を討つという策略)で、頼時を討った、このときの(助勢に加わった))宇曽利郷の首領が安倍富忠であった。
安倍富忠は宇曽利富忠とも称して出自は宇曽利郷であったと推定される。」下北半島史・笹澤魯羊・ ( )内:筆者

安倍氏の名の語源もアイヌ語と推定できる。安倍はアウ・ウン・ペ au・un・pe が変化したアウンペ aun・pe からアンペ anpe となり意味は「内に入りこんでいる・もの」となる。

us・or も aun・pe も同じかどうか、時の経過と共に生活圏は広がったと見たい。つまり丸木舟で川尻中心の生活圏をさらに芦崎湾内へと拡大し、大きい船も操るようになったのが安倍氏であろうと考える。

 安渡村の語源もアイヌ語と推定できる。安渡はaun・to 入りこんでいる・海 に由来するもので、元の形はaw・un・to であると考えられる。
この場合、「入り込んでいる・海」は芦崎湾us・or とは考えないほうがよいかと思う。
なぜなら安渡村は芦崎よりも東からと大平までの間を云うものである。大平岸壁とさらにその向こうは遠浅干潟のできる海岸であった。

大平岸壁近辺を「入り込んでいる・海」aun・to と云うのだと解釈したい。

安東氏の語源はまた、aun・to から来ている。つまり安渡村であるので安東を名乗ったのだろう。さらに、安東氏は安倍氏の末裔であることからも、宇曽利→安倍→安東と生活圏を移動拡大しながらそれに併せて姓も変えていったと思うのである。

 結論すれば、糠部郡宇曽利郷の「宇曽利」はus・or 湾・湾内という意であって、今の宇曽利川の川尻あたりの「宇曽利村」が宇曽利郷の発祥の地なのである。

つづく

※下北半嶋史 増補三版・笹澤魯羊
※ 地名アイヌ語小辞典・知里真志保

2013.10.18 補足

斗南藩は明治四年 安渡、大平の二ヶ村を合併して、大湊町を興した。「元大平の分は本町(もとまち)、元安渡の分は浜町と相唱し候」 下北半嶋史

 大平の大をとり、安渡村のみなと(大平もみなとであるが)を湊としてあわせつけた大湊とはなかなかいい名前だとおもう。

他地区の人がみれば大きい湊として見てしまうかもしれないが、大平の文字が使われているということであったのだ。

「田名部川は舟楫((シュウショウ:舟と櫂かいのこと)楫かじなのに))の便があり、安渡、大平の湊に碇泊する廻船の積荷は川船に移して川を遡り、田名部大橋の問屋の倉庫へ搬入された」下北半嶋史
(10月13日 東北アイヌ語地名研究会・下北研修会での発表内容 をまとめています。但し時間の関係で発表までにはいたりませんでしたが)

補足説明2017.09.05

大平から安渡村から川守田村(今は川守)の位置を示し安渡湾、aun・toを示したい。
写真で見よう。
e0039759_1625548.jpg

こういう位置関係なのです。

いま、水源地公園のところに観光交流センター「北の防人大湊 安渡館」という建物がある。
むつに来たときに先輩が、安渡湾というのは芦崎湾(宇曽利湾)のところであって、沖からやってきた船が波静かなところに入って安堵したから(漢字を変えて)安渡湾というんだということを教えてくれたが、違うんじゃないのといまなら言えるね。
芦崎の内海じゃなくて、むこうのtoだもの、ましてや安渡村という村まであって湊があるのだから、安渡湾は安渡湾、宇曽利湾は宇曽利湾と考えるのが正常でしょう。

安渡館の前に見えるのは安渡湾ではなく、宇曽利湾です。

安渡湾はずっと左の田名部河口から大湊浜町あたりのところ。

安渡館と名前をつけた人は誰なのか知らないけれど、関係ないんだろうね。ジオパークのガイドさんは、適当なことを説明するんでしょうね。以上補足。

2017.8.11に安渡館で芦崎の自然の2種のドジョウ、エゾホトケドジョウとキタドジョウのことをお話したときの内容が電子版に掲載されました。
ここにリンクをはります。←ここをクリックしてください。

by snowmelt | 2017-09-04 20:03 | Comments(0)