北のフィールドノート

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カテゴリ:アイヌ語地名( 25 )


2016年 08月 05日

東通村の鹿橋(ししぱし)はアイヌ語地名でしょう。

シシシはどんな意味だろうか  下北自然学巣 大八木 昭

東通村の鹿橋はしかはしなどとは云わない。ししぱし(shi shi pa shi)だ。

国土地理院の地形図にさえ、『ししぱし』とふりがなをふっている。

国土地理院にしては、これは珍しく地名を正しく表記しているのではないか。

といっても、ふりがなだけのことだ。

なぜシシが鹿という文字になったかと考えるに下北ではカモシカ(羚羊)のことをアオシシという。そのシシをなにやら混同して『鹿』という文字を和人があてたのだろうと想像する。パシは適当に『橋』をえらんだのだろう。

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笹澤魯羊の下北半島史には東通村の地名がいくつか載っているが、鹿橋(シシパシ)は記されていない。

これは、アイヌ語地名だろうと考えていたが、今のところ、一応これではないかと考えているので書いて置こう。

知里真志保の地名アイヌ語辞典に

sisuye-i  シすイェイ  湿地内でそこへ上がればぽこんぽこんと揺れるところ とあり

pe-sat,-i ペサッ  沼の跡  あるいは pet-sam ペッサム   川のそば 

あたりでそこをあらわしているのではないかと考えている。ぽこんぽこんと揺れるところとは地図上のやじるしのところではないかと思っている。現在はヨシが密生して乾燥させられつつあるが昔はひろい高層湿原的なところだったのではないか。高層湿原でなくても浮島でも近辺にもあるのでそんなのだったかもしれないが充分揺れるところがあったのだろうと思う。

矢印の左(西)の湿地は今はない。

by snowmelt | 2016-08-05 09:47 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2016年 05月 14日

今年の北海道行きひとつ目

どうしても北海道に行きたくなる
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途中でカーナビを間違えたのかなんと洞爺湖とオロフレ峠に行ってしまった。

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オロフレ峠は今は山に名付けられオロフレ山というそうだが、元々は川に名づけられたものでオロフレベツ(白水川)のことだそうである。ウォロ・フレ・ベツで水中の赤い川の意味であると更科源蔵は書いてある。

そうだよなケイマフリは赤足でケマ・フレだものね。
オロフレ峠で山を見ていたらフレは崖だったっけなどとまちがってしまった。ピラだピラだ美羅雄山だなどと訳わからないことをつぶやいたりしながら石狩をめざしました。

by snowmelt | 2016-05-14 23:42 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2014年 12月 08日

野牛川海浜・湖沼公園・公共事業



by snowmelt | 2014-12-08 19:09 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2014年 09月 11日

再びきた・オソルコッ・恐山に通ず・白老町・虎杖浜

オソルコッ・恐山にも通ず・白老町・虎杖浜というのを書いたが

昔を知っている人を紹介してくれるというので私は再び虎杖浜の民宿美鈴にやってきた。

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民宿美鈴のご夫妻はむつ市の恐山参りのついでにむつ市の拙宅を尋ねてくれた。ありがたいことであった。その際に古い写真など集めて、昔の虎杖浜をよく知る人がいるよ。
今度虎杖浜に来たらその人を紹介するといってくれていたのだ。

その人は本間さんという。


朝、本間さんがやってきた。
何が知りたいかということで、この写真がどこなのか知りたいと切り出した。

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ここはわかります。案内します。何のためらいもなくここだと案内してれた。

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ここには30軒くらいあったかなという。

木が生えてわかりにくいけど右手の崖を画角にいれなければ

見取り図には川(ポンアヨロ川)が書かれていないが、川はあるときから危険河川となって海側のみんなは立ち退きをしたそうである。

上のお宮家並みは残ったという。

私が7月にここかなと思ったへこみには3軒の家があったという。3軒は早くに立ち退いてかたづけられたという。

30軒ぐらいのところには岩があってこの上に電信柱が立ててあったという。
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実際にまだ柱の根元がのこって見える。
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道路が山をまわってくると遠いので、お祭りの時などの通行はたいてい海の際の落ちそうな道筋を歩いてきたという。
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映画を見にここまで来るという。
絶対にむこうのへこみではなくて、こちらが本の写真の場所ですよということだった。

海の岩をみればなるほどこちらかと思われる。
此処がオソルコッの海辺
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此処がオソルコチの海辺。
コタンカルカムイ、あるいはサマイクル、あるいはオキクルミと呼ばれた大きな神様の尻餅の跡
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ただし、まだ私には疑問にのこることがあるのです。

教えてくれたこの場所にはポンアヨロ川という小さな川が流れているのです。

昔からあったのではないかと思われます。

それならば、見取り図になぜ川筋が描いていないのでしょうか。

地名アイヌ語小辞典 知里真志保著の81ページの写真と見取り図は実はちがうところという推測はありえないだろうかという疑問です。




追記 2014.09.15

見つけました。見つけました。

本間さんは、ある本を借りてきてくれたのです。民宿美鈴にもよく来てくれていた、高田寅雄さんという方の

本でした。高田寅雄遺稿集 ふるさとアヨロ 上巻・下巻でした。

今朝借りてきておいたので、むつに帰るまでに必要なところを読んでそのまま民宿美鈴に置いといてということでした。

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これはいいなと思うところをデジカメで撮しておきました。

その、上巻の
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38ページからの「虎杖浜-地名の由来と上田円生 」白老郷土文芸 第4号 1984年に寄稿していたもののなかに、ヒントとなる事柄が書かれてあったのです。

それは、灯台の場所でした。

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海図に虎杖浜の岬は「アヨロ鼻」になっているため、そこの灯台は「アヨロ鼻灯台」とよぶこと。

『その灯台のところがカムイエカシチャシ(神の先祖の砦)のあったところで』・

・・・・『・灯台の下のポンアヨロに昔あったコタン(部落)』・・・・

灯台の建っている場所が「カムイエカシチャシ」とよばれたところなのだと書いてあったのです。

ポンとは小さいというアイヌ語で川の名称はポンアヨロ川となっています。

虎杖浜には鮭ののぼるアヨロ川というのもすこし離れてあります。

つまり、見て下さい。

この見取り図の方。

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『kamuy-ekasi の chasi』 の場所が、そこが灯台の場所なのだと云うことがわかったのです。

そして、海にむかって、灯台のところから左のへこみがオソルコッ Osorkochi なのだと。

7月24日にここではないかと思ったその場所が見取り図のオソルコッそのものでした

本間さんが云った3軒くらいしかなかった方がオソルコッだったのです。

岩の上に電信柱を立てていたのはいまポンアヨロ川が流れるポンアヨロのコタン跡の家並みで海に向かって左の上に灯台があり、その左のへこみがオソルコッということと結論します。

7月24日には海霧でみにくかったのですが。

9月9日ははっきりと灯台があります。

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7月24日の写真をのせて見ます
この左端の岩の上の方に灯台があります。
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向こうへ行って、向きをかえて灯台のほうを眺めます。


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地図にまとめてみよう。
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アヨロ鼻灯台の北にオソルコッがあり、アヨロ鼻灯台の南にポンアヨロ川がながれ、ポンアヨロ・コタン(部落)があったと結論しておこう。

以下・再・追記2014.09.28
実は、8月14日に民宿美鈴のご夫妻がむつに来てくれたときに、2枚の写真を持ってきてくれたのだ。
その写真の一枚をスキャンして載せてみます。
ポンアヨロ川集落30軒ほどあったという昭和30年代の写真です。これは本間さんがあげると渡してくれた写真です。
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右のほうにポンアヨロ川が流れています。これは地名アイヌ語辞典の写真とはややちがう様には感じます。

by snowmelt | 2014-09-11 22:40 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2014年 07月 28日

オソルコッ 恐山にも通ず 白老町 虎杖浜

北海道・白老町(しらおいちょう)の虎杖浜(こじょうはま)にオソルコッあるいはオそルコチというものがあるということは地名アイヌ語小辞典・知里真志保の80-81ページに出ていた。

『osorは尻,kotはくぼみ,尻餅をついた跡のくぼみの意。
各地にOsorkochi オソルコチ,オショルコチという地名があり、海岸の段丘を尻餅の跡の形にくりぬいたような窪地にその名がついている』

『巨大な神様がクジラをヨモギの串にさして焼いているうちにその串が折れたのでびつくりして尻餅をついた跡のくぼみが「オソルコチで串が折れて岩に化したのが「イマニチ」(その魚焼串)だという伝説がついている』

虎杖浜の写真は昭和30年代だろう。付近見取り図もある。
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虎杖浜の民宿美鈴のご主人に、ここらにこれらしいところはないだろうかと尋ねた。

ご主人は「岩がぽつぽつ出てくるところは、あそこしかないな。」

奥さんが、「明日、とーさんの車の後をついていったらいい」と云ってくれたので、ありがたくご案内となったのでした。

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そこは、漁港を作ってから浸食が激しくなり、キャンプができた砂浜も海岸の砂浜も、ちょつと沖の岩場までの砂浜もごっそりとなくなり、沿岸流の下手の漁港が砂によって埋もれてしまうと云う変わり様だそうで、
昭和30年代までの景色は想像すらできそうにもないようでした。
しかし、なごりが見えるかもしれない。かすかな望みをいだいて行きました。
ガスがかかっている。
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ご主人はもどり、
我々は探索。

昆布拾いの軽トラのひとが海岸を歩く
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うまそうな昆布はこんなふう
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少し行くと陸にむかって窪んでいるところがあった。
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砂を戻せば最初の図のようなところだ。
海側からパノラマ写真を撮ってみる。
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向こうのはずれからくぼみを見る。
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イマニチらしいのは形がはっきりしないがあることはある。次の動画の一番最初に出てくる岩がそれだと思う。

虎杖浜でオソルコチらしいのはここだろう、此処しかないと判断した。




イタドリという植物を漢字でかけば虎杖とかきます。

此の海岸はイタドリが多かったので、アイヌはクッタルウシと呼んでいました。クッタルがイタドリでウシが多いところという意味です。

昔、博識な和人がイタドリを漢字で書いて見せた。「虎杖」と。それに浜辺だから浜をつけて「イタドリの多い浜辺」

「虎杖浜」と。

その後に、余り博識でない役人あるいはアイヌから言葉を奪おうとしたのか役人が、

ここはコジョウハマと呼べと命令し、以来コジョーハマと呼ばれているのです。

近くの山の上にはイタドリの多く生える湖があります。

ここは、いまでも倶多楽湖・クツタラことアイヌの呼び名を残しています。

恐山に通ずというのは恐山の湖が尻餅の跡に見えるからだと私は説明しているのですが、納得しない人ばかりでごんす。


追記 オソルコッ探しにまた虎杖浜へ行ってきました。2014.09.09
    上のへこみには3軒ぐらいしか家がなかった。本の写真の場所はこっちだと教えてくれた方がいたのです。
再び虎杖浜への記事を2014.09.11に書きます。

by snowmelt | 2014-07-28 21:15 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2013年 11月 14日

青森・下北のアイヌ語地名 尻屋・寒立馬のアタカの森

東北アイヌ語地名研究会で尻屋方面を巡検していた。

ワシリを見て、モシリを見て、尻屋崎の灯台をめぐり、尻屋の集落にむかう。

運転しながら助手席の小林紘一さんに話しかけた。

『寒立馬のいるアタカの森のアタカは、どう考えますか』

しばらくして『・・・・・・アトイ・カ ですかね・・・・・』と答えが返ってきた。

私は「海の・上ですか」と云って、頭の中では納得はしていませんでした。


『自分のあたまではそれぐらいしか考えがでてきませんね』ということだった。


アタカを通り過ぎて、漁港からふりかえってアタカの森をみた。

この方向である。

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うーん、海の上か、どこでも海の上だよなーとすっきりしない。



研修会が終わって、私はいつものように山へ芝刈りに行っているときに

ある場所に出くわしたのです。

それは次の写真。この上に乗ったのです。

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反対から見れば

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左足がえぐれてまさに水の上でした。
そうです。「おバァさんが川で洗濯」のとき、川に杭をうって板をかけたまさに桟橋状態なのです。

桟橋は水の上に延ばすものです。

コンクリート桟橋も水の上に延ばすものです。

『岸から水上に突き出して作った橋、水上に突き出して作った船着き場』と辞書にあります。

位置は、水上、なのだ。

そして、俄然、以前に登って眺めた位置から、その姿が確認できるのではと、桑畑山を登って見たのです。

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※画像をクリックして、出てきた写真の右下の+むしめがねマークをクリックすれば拡大されて見られます。一番向こうの白いのが灯台です。


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動画です


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アタカは アトイ・カ atuy・ka (海の・上)でまちがいはないのではと思ったのです。
小林紘一さんにこれを知らせましょう。

つづく

「海」はアトイと書いてもアツイと書いてもアト゜イと書いてもいいのだろうが、発音はトでもツでもないト゜(英語のtu)というようだ。
弟子屈町屈斜路の Atuy さんは自分の名前を アト゜イ と表記している。

補記 

アツイ・パ は「海の・かみて」で(東)
アツイ・ケシ(シは小文字)は「海の・しもて」で(西)

と古代アイヌ語ではいうと大友は書いている。

by snowmelt | 2013-11-14 16:54 | アイヌ語地名 | Comments(1)
2013年 11月 12日

青森・下北のアイヌ語地名 灯台と寒立馬の尻屋

太平洋戦争のときに青函連絡船はアメリカ軍の空襲爆撃を受けている。

陸奥湾内の大湊基地・艦船は激しい爆撃、航空機銃撃を受けている。

航空機銃撃を受けている最中に、義母は防空壕の中に居たので、その様子は全くわからなかったと云っていた。

「喜びも悲しみも幾年月」のロケが行われたかどうかは知らないが

『太平洋戦争末期の昭和20年7月、尻屋埼灯台は数回にわたってアメリカ軍の空襲を受け、灯台の施設のほとんどが破壊され、当時勤務していた村尾標識技手も殉職した。』とある。

『空母ヨークタウンよりFG-1Dコルセア戦闘爆撃機×4機及びF6F-5P空撮用ヘルキャット×4機が発進』して迎撃は皆無状態で、北海道の列車、石炭運搬船、青森の尻屋灯台等を銃撃、とある。

今は無人の灯台が立っている。
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海上保安庁ではおおむねサキはつちへんを使うので、「尻屋埼灯台」と書き、土地名は「尻屋崎」とやまへんを使うとある。

その尻屋はアイヌ語からきていることは、多くの人に知られているが、てきとーな解釈も多いみたいだ。


山田秀三は『しりやの語源はアイヌ語のsir・yaで、その意味は直訳すると「陸・岸」「ヤは陸岸」になります。』と書いてある。


エミシ学会の菅原進先生は-エミシのクニの-アイヌ語地名解(2011年4月発行)のなかに、

これ(山田先生の)では、感性ゆたかなエミシの人たちの真意をくみとった解釈ではないのではと次のような解釈をしています。

『海際に迫る険しい断崖の・岸』『ヤは陸岸』という解釈をなさっています。

私も何回も尻屋の崖に登り、これはもう行けない、完全に無理だという断崖・海に落ち込む断崖の一端を見ていますので、

これは、単に  「陸・岸」  よりも、その様をあらわした

「海際に迫る険しい断崖の・岸」  のほうをいただきたいと思います。

左端崖下が海になっています。
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この、山際ちかくに集落があります。
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この道路に向かって左後ろの方向には全く山はなく、岬へ、灯台への方角となっています。
その岬方向には、貝塚遺跡などがいくつかあり、「浜尻屋には遺跡がある」という言い方をしますが、
ハマの方の尻屋と云うことで、いいのですが、sir・ya という意味を考えてしまうと、あれま変な意味だーと感じます。
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この道を行って左にまわると、寒立馬と呼ばれる半野生馬が冬場には集められてすごす、エサをもらう、「アタカの森」という場所があります。突き当たりに「アタカこの先1.6キロ」というような看板があります。

その「アタカ」が何を意味するか、やっと納得のいく姿を 撮影できていたのでそれはこの次に。

つづく

by snowmelt | 2013-11-12 12:27 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2013年 11月 04日

青森・下北のアイヌ語地名 津鼻崎とは

山田秀三はアイヌ語っぽいがわからないものを手帳に書き記している。

北海道南部に津花崎があり、下北に津鼻崎がある。わからないと。

なんのヒントもない。

なかなか、鋭い岬だ。

脇の柱状節理がきれいだ。

北奥路程記(江戸時代)には、この柱状節理のことを云っているのだろうが、

絵図には「材木岩」という名が書かれており、

文中には

「左は海辺、引き詰めて材木を重ねたる如き大岩あり、材木岩と云ふ」と書かれている。

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画像をクリックして、でてきた画像の右下のむしめがね+マークをクリックすれば大きく見られます。

つづく

by snowmelt | 2013-11-04 22:32 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2013年 11月 01日

下北のアイヌ語地名 青森にシレトコがあった その2

貝崎がシレトコらしいし、カヤノサキ・カイノサキと呼んだことを前に書いた

フィルム時代にしか、そのあたりの風景は撮っていなかったので、また、行ってみた。
さあ、どうだろう。
次が、北海岬である。
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北海岬を近くで見ると次のようになる。

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そして、次が貝崎である。

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今日は天気がよかった。
しかし、不思議、北海岬を廻ったとおもいきや、風の強いこと、波の立っていること、カメラが風のためぶれてしまうくらい。

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そして、逃げ帰えり、北海岬をひきかえすと、また風・波のないこと。

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前の記事には次のように書いた。

「地名アイヌ語小辞典には
kayには折れる、折れくだけるという意
kayaには帆 kaya-niには帆柱という意
kay-kayはkayの集合形で、これには折れ波、くだけ波 白波などの意がある。

私は kaykay-not 折れ波・みさきの意がカヤノサキであると考えた。

kay-not なら文法的にあわないとは思うが kaykay-not が短縮するかしないかはわからないが
もしも、私のかんがえで都合よくkay-not になればカイノサキとも表記されるとも考えたりしている。
どれか近そうな、イメージ的には意味がありそうな気はするが、全く想像するしかない。
村崎先生に聞いてみようと思う。」

まだ、村崎先生には聞いていないのだが、

岬をよくよく見てみると、北海岬は、江戸時代の北奥路程図にあるように岬というより北海山といったほうがやはり合いそうだ。not ノッは あご であり みさき なのだ。


北海みさきは あご のようではない。だから、北海山とかいてあったのだと納得したし、


あくまでも、アイヌはみさきをカヤノ(サキ)・カイノ(サキ)という表現で云うのだろうと思えてきたのである。つまり、海洋状況を表現したのではなく、やはり岬の形を言い表すことが第1で、そこから波がひどくなることがあるよと覚えた方がみんなに伝えることができるという風に考えたのである。

だから、単純に、波のことなど考えずに、kay-not これが文法的にいいのかどうかは先生に聞いてみなければ判らないが、折れる・あご そのかたちそのものを見ていたのではないかと。
北海山に比べたら 貝岬の形は 「折れる・あご」 に見えませんか。

大友幸男氏が書いていますが「現地で土地勘のある人間が見た方がわかる」ということは言えると思います。


ものを見るのは、その人のセンスの問題でしょう。

目の前にいても、見えない人には見えない。センスのない人には見えない。

新種の生物が目の前にいても、センスのない人にはなにも見えないものでしょう。

自然地名なら地図だけではアイヌ語源を想像することはできても、実際に見たものにはかなわないはずです。

アイヌは空をとんで地上をみることはできなかったのです。地に足をつけた目線でしか見ていないのです。これは当たり前ですが、現地をみないで断定はしない方がよいかということです。

つづく

by snowmelt | 2013-11-01 23:02 | アイヌ語地名 | Comments(0)
2013年 10月 24日

青森・下北のアイヌ語地名 袰部の解読パズルから武器輸出・緩和

東通村の袰部はホロベとよぶ。
むつ市田名部はタナブと呼ぶ。

昭和31年の東北と北海道のアイヌ語地名考・山田秀三著では「ホロベツとかホロナイとかいう地名が方ぼうにある」ことをあげている。

ホロは『一応はポロベツ・大河、ポロナイ・大沢(川)の意味であるが行ってみると必ずしも大きいという感じがしない。poro・大きいはpon・小さいに対する語である。』

そして青森県下北郡の((ここでは))『母衣部((ルビはホロベ))は大川((ルビはポロベツ))の意らしい。』としている。

平成25年のいま、県道6号線を尻屋に向かって、南から行くと野牛沼・川の橋をすぎたら、橋らしいものは全く見当たらない。

道路の下をくぐっているだけなのだろう。戻って左折して袰部の集落に向かうとすぐ小さな橋があり、河道がある。

その川の上手にいくとその川は石灰岩の山の桑畑山から流れてくる「北ノ沢」という名が五万分図に書かれていることがわかる。上流は北ノ沢で、合流する沢もないのに途中から名前が袰部川になっている。
2011年3月21日には、この川には結構な水が流れていた。
その時に撮ったクロカワゴケの写真である。
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きれいな、川の水だと感じていた。

山田秀三は「東北と北海道のアイヌ語地名考」のときは袰部を訪れていないようだが、あとの何かの本には、袰部川は他の当地域の川に比べて大きいからホロベツがその語源なのだろうと書いていたのではないかと、確かではないが思っている。

そうなのです、野牛沼・川、以北では袰部川以外に橋の架かっている川はないのです。赤坂川などといっても一跳びで越えて行ける沢幅なのです。
だから、袰部の解読パズルは、山田説のホロベツからきている、で納得なのです。

でも、もしも山田秀三が、あるいはアイヌの人がこの川のありよう(袰部川の様子の写真)を見たなら、この袰部川をなんと呼んだでしょうか。というクイズ、パズルです。
次は2013年7月18日の袰部川の様子の写真です。
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河道全域が乾いています。
これをみたら、山田秀三なら、アイヌのひとならなら絶対にホロベツではなかったね、これなら札内か佐比内と呼びたくなるね。袰部は別の解釈をしなければならないと考えたでしょう。サツナイは「から沢」、サッピナイは 乾く・小石・川 の意でどちらにしようか迷いそうです。

次は2013年10月23日の袰部川川口の写真です。
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雨が続いたりで、河口は見えています。 ※写真が小さくてよくわからないときは、写真をクリックして、でてきた写真の右下のむしめがね+マークをクリックすると拡大されて見ることができます。



7月は上流の飲料生活用水取り入れ口までは水がありましたがそれより下流河道はサッピナイだったのです。

此処をホロベツと呼んだ時代は現在よりも、昭和30年代よりももっとホロベツらしい川だったと考えられます。それは何故かということを考えます。

袰部川の水源は桑畑山です。石灰岩の山です。
現在は日鉄鉱業や三菱マテリアルなどが桑畑山を切り崩しベルトコンベアーで積みだし港・アイヌ語でモシリ・島のところから、搬出船が出航して行きます。

桑畑山は今に山ではなくなるでしょう。下へ下へと石灰岩はあるということですからまだまだ掘るだけ掘るのでしょう。

桑畑山がなくなったら北ノ沢の水がなくなるのは当たり前でしょう。
袰部川は川ではなくなり、サツナイになるのでしょう。
袰部の集落がそういう時代まで人が住んでいるのかは疑問ですし、関係ないことかもしれませんが、固定資産税で地下水を供給してやればそれですむだろうと誰かは考えているのでしょう。

平安初期の蝦夷征討以来、先日は、ある経産省官僚が「被災地なんて、もともと滅んでいた東北のリアス式の過疎地なんだから復興など必要ない」「復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい」と書いたことでブログ炎上。「日記の様なつもりで軽い気持ちで書いてしまった」で表せるように、「もともと滅んでいた東北」・自分の先祖が滅ぼしたという血筋がある官僚がいることは充分ありうることだと思っています。


その地域がなくなろうが関係ない。「もともと滅んでいた東北」なのだから。
国の経済が第1で金になれば何でもよい、原発も最終処理できなくとも経済第1、武器輸出三原則の緩和も経済第1。

経済が第1で、桑畑山がなくなり、袰部を札内にかえてもかえなくても、どうだっていいでしょ、たんなる呼び方なんて、でしょうかね。あっ、判った。古袰部ですね。 これもどうでもいいこと。


つづく

※(10月14日 東北アイヌ語地名研究会・下北研修会巡検地での地域事項 をまとめています)


※補足・
下北半嶋史には桑畑山と石灰岩の採掘の事が書かれている。
『東通村岩屋の東に盤峙する長石蔵山海抜一三八一尺は岩屋、尻屋、尻労の三大字に跨る石灰岩の山である』

これをみると、いま桑畑山といっているのはなんだろう。長石蔵山なら断然和語だろう。桑畑という地名は下北の中にまだある。くわはたと呼び、クッハタと聞こえる。

山桑はわずかに麓にみられるがくわばたけではないので、これも蝦夷が言い伝えた言葉かもと考えている。



明治21年に北海道の生田弥助は借地して採掘したが、道路の近くを掘るために、人馬の往来に障碍をきたすと異議申し立てがあった。

大正11年頃青森市の本間権之助が採掘し、12年にしてやめた。

昭和13年扶桑工業会社が尻労から積出したが両三年にしてやめた。

昭和33年から日鉄鉱業会社が採掘を始め、『将来は年産百万屯を目標に事業を進めて居る』

by snowmelt | 2013-10-24 14:15 | アイヌ語地名 | Comments(0)