北のフィールドノート

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2017年 09月 04日

青森・下北のアイヌ語地名 糠部郡宇曽利郷 の 宇曽利 とは 芦崎 とは

                                              下北自然学巣 大八木 昭

八戸市の馬淵川あたりから北方は外ヶ浜あたりを含んで糠部郡(ぬかのぶぐん)と云った。

そして下北半島には宇曽利郷(うそりのかう)と呼ぶ所があった。そのうそりのこうを考察してみる。
 
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北奥路程記をみれば位置関係がわかる。
この巡視記録は江戸後期の盛岡藩士が記したものなので、宇曽利郷の後世の姿ではあるがそれを読み解いていきたい。

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 この写真は釜臥山(路程記の中でもこの名称が使われている)から撮したものである。
北奥路程記の行程は、この写真では奥の海岸伝いに近づいてきて、この地域に入ると左から右へと進んでいく。

「大平村中右に金比羅堂・願求院・神明社、大平より六百七十五間行きて、但し、安渡村入口へは二百間なり、」


解説してみよう。写真左方から、大平は「往昔大鍋平というた。蝦夷語のオ・ナム・ペ・タイ川尻の冷たい水のある木原の意に出づるのである。荒川の水をひいて飲料とした。(中略)旧舘跡があり、巣鷹城、または尻高城とも書かれ(中略)踏査したるにりっぱなチャシコチであった。竹花某はおそらく日本名の酋長であったろう」下北半島史・笹澤魯羊

 むつ市立大平中学校の校歌には「巣鷹ヶ丘」という歌詞がはいっている。荒川は大荒川なのか小荒川なのかはいまは不明である。江戸時代には大鍋平が大平村になって願求院もあったと解せる。

そして写真右へ(西へ)行くと安渡村にはいる。

「安渡村長き町也、海際にて繁昌のところなり、」

安渡村は長い。

「安渡村の後ろは釜臥山、前は入海、芦崎と云ふ松立の出崎あり、気色はなはだよし」

「安渡より五百弐十一間行きて、川守田村」「是より五百八十間行きて、浦(宇田とも)、家」

「川守田村中小川弐ツあり、川守田川小川なり(中略)但し、右へ入り、城ヶ沢への山道もあり。右(ママ)はすべて海辺道なり」


川守田村は現在は「川守」である。
また「浦(宇田とも)」の起源はota オた 砂浜である。
宇田のところに砂浜があったと解せるし、対岸には沿岸流により砂の堆積した芦崎という砂嘴がみられる。

補記2017.09.04:芦崎の語源はアイヌ語のmoy・ asam,モやサムかmoy・a-sam モイアさむ 湾底;(湾・入江・沼・洞窟などの)奥という意が由来と考えられる。をもう一度考え直しました。

芦崎は北奥路程記では芦崎だが、他に足崎という表記もみられる。

地形的にもアイヌ語的と考えることができる。

『アイヌの考え方による。川の右岸と左岸は和人とは反対である。和人は川は海へと流れるものだから海に向かって川の右岸、左岸という。

アイヌはだいたい海に近い川尻に住むことが多かった。だから、川をさかのぼって行くものなので、山に向かって右をシモンsimon(右)、左をハルキharuki(左)と呼ぶ。』

生活圏からみての右・左ということである。だから、湾の奥といえば、生活圏の川尻からみての奥の端に砂嘴があるのでそれを奥・アサムと呼び、それがアシになり「芦」や「足」になったというのが私の解釈である。などと書いたが、棒線部のこれは撤回する。

理由は、北海道のモイアさむ・モやサム示す説明は(山田秀三・アイヌ語地名の輪郭)はどうみてもへこんだ方を湾底というらしいからです。

そして、まさに『 ホアシ ho-ashi-i (<山の>尻・をたてている・もの、岬)』という説明があったのです。
さらに、『先の方が少し高くなっている岬をいう』とまであるのです。

芦崎をもう少し見てみましょう。
砂嘴部分をみわたし
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やや見下ろし
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水平にちかくまで視点をさげると
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という訳なのです。

岬は尻をたてている・もの あるいは尻を水につけている・ものなのです。

北奥路程記の地図は一番へこんだ所が切れています。

江戸時代は切れていたのでしょう。つまり尻の前の背中の部分が水につかった状態だったのでしょう。

砂嘴のでき方は最初は連続してできても波浪の状態でまた切れたり、つながったりしていたのではないでしょうか。

今は外側だけコンクリート護岸しているので途切れることはないのでしょう。

これで、やっとホアシから芦崎になったのではないかとの確証をいまのところ得たと思っています。-----ここまで補記



青森県立大湊高校の校歌は「芦崎の波しずまりて」ではじまる。


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 ここで、川守田の語源をアイヌ語で考えてみる。

何故かというと大平村からウソリ村まで、すべてアイヌ語であり、他より小さな小川しかないのに川守田とここだけ和語とは考えられないからである。

 では、川守田の地形位置とはどう云ったら的確なのか。

川守田の位置は・芦崎のちょうど先端・の対岸にあたる。

つまり、和人風にいえば湾の入り口の敷居の位置、アイヌ人が云えば湾からの出口・あるいは湾の・底の位置である。

であるから kama・moy-asam・ta カマ・モやサム・タ・ 上を越える・湾の(底)・そこに、あるいはカマモイアサムタを川守田の漢字で表したはないかと想像している。(補記2017.09.04ここももう少し考えが違うかもしれないがkama・moy・taという用語はまだ見つけていないのでこれではないのだろうかとも何とも言えない状態です。川守田村は点ではないと考えればkama・moy-asam・ta カマ・モやサム・タ・ 上を越える・湾の(底)・そこに、でいいのではなどとも考えられるし)

宇田からは
「この道筋、小堰、小川数々あり、右の方ひきあがり ウソリ村・安渡 ・ 城ヶ沢の界川云ふて、橋四間半の小川あり、此処まで入海の所、是より陸地野平または畑、杉立、ひだりは松林の道を行きて城ヶ沢に至る、」

ここでウソリ村が出て来る。
絵図の中には「宇曽利」と書いてある。これがアイヌ語のus-or・ウそル(ウしょル)(カタカナひらがなまじり表記のアイヌ語はひらがなのところにアクセントがあります)湾・湾内であり、ひろく宇曽利郷と呼ばれるに至った発祥の地であると考える。

橋四間半の小川が河川の宇曽利川であろうし、安渡村および宇曽利村と城ヶ沢村との境界の川ということと解せる。水が必要そして宇曽利川の川尻を生活圏とした宇曽利の蝦夷が居住したと考える。

宇曽利村名は現在は「宇曽利川」という地区名で呼ばれている。

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                                                       (宇曽利川の川尻から奥を見る)
 


「天喜五年(西暦1057)源頼義が奥州の豪族、安倍頼時征討に下った際、宇曽利郷((らの蝦夷の助勢・(夷をもって夷を討つという策略)で、頼時を討った、このときの(助勢に加わった))宇曽利郷の首領が安倍富忠であった。
安倍富忠は宇曽利富忠とも称して出自は宇曽利郷であったと推定される。」下北半島史・笹澤魯羊・ ( )内:筆者

安倍氏の名の語源もアイヌ語と推定できる。安倍はアウ・ウン・ペ au・un・pe が変化したアウンペ aun・pe からアンペ anpe となり意味は「内に入りこんでいる・もの」となる。

us・or も aun・pe も同じかどうか、時の経過と共に生活圏は広がったと見たい。つまり丸木舟で川尻中心の生活圏をさらに芦崎湾内へと拡大し、大きい船も操るようになったのが安倍氏であろうと考える。

 安渡村の語源もアイヌ語と推定できる。安渡はaun・to 入りこんでいる・海 に由来するもので、元の形はaw・un・to であると考えられる。
この場合、「入り込んでいる・海」は芦崎湾us・or とは考えないほうがよいかと思う。
なぜなら安渡村は芦崎よりも東からと大平までの間を云うものである。大平岸壁とさらにその向こうは遠浅干潟のできる海岸であった。

大平岸壁近辺を「入り込んでいる・海」aun・to と云うのだと解釈したい。

安東氏の語源はまた、aun・to から来ている。つまり安渡村であるので安東を名乗ったのだろう。さらに、安東氏は安倍氏の末裔であることからも、宇曽利→安倍→安東と生活圏を移動拡大しながらそれに併せて姓も変えていったと思うのである。

 結論すれば、糠部郡宇曽利郷の「宇曽利」はus・or 湾・湾内という意であって、今の宇曽利川の川尻あたりの「宇曽利村」が宇曽利郷の発祥の地なのである。

つづく

※下北半嶋史 増補三版・笹澤魯羊
※ 地名アイヌ語小辞典・知里真志保

2013.10.18 補足

斗南藩は明治四年 安渡、大平の二ヶ村を合併して、大湊町を興した。「元大平の分は本町(もとまち)、元安渡の分は浜町と相唱し候」 下北半嶋史

 大平の大をとり、安渡村のみなと(大平もみなとであるが)を湊としてあわせつけた大湊とはなかなかいい名前だとおもう。

他地区の人がみれば大きい湊として見てしまうかもしれないが、大平の文字が使われているということであったのだ。

「田名部川は舟楫((シュウショウ:舟と櫂かいのこと)楫かじなのに))の便があり、安渡、大平の湊に碇泊する廻船の積荷は川船に移して川を遡り、田名部大橋の問屋の倉庫へ搬入された」下北半嶋史
(10月13日 東北アイヌ語地名研究会・下北研修会での発表内容 をまとめています。但し時間の関係で発表までにはいたりませんでしたが)

補足説明2017.09.05

大平から安渡村から川守田村(今は川守)の位置を示し安渡湾、aun・toを示したい。
写真で見よう。
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こういう位置関係なのです。

いま、水源地公園のところに観光交流センター「北の防人大湊 安渡館」という建物がある。
むつに来たときに先輩が、安渡湾というのは芦崎湾(宇曽利湾)のところであって、沖からやってきた船が波静かなところに入って安堵したから(漢字を変えて)安渡湾というんだということを教えてくれたが、違うんじゃないのといまなら言えるね。
芦崎の内海じゃなくて、むこうのtoだもの、ましてや安渡村という村まであって湊があるのだから、安渡湾は安渡湾、宇曽利湾は宇曽利湾と考えるのが正常でしょう。

安渡館の前に見えるのは安渡湾ではなく、宇曽利湾です。

安渡湾はずっと左の田名部河口から大湊浜町あたりのところ。

安渡館と名前をつけた人は誰なのか知らないけれど、関係ないんだろうね。ジオパークのガイドさんは、適当なことを説明するんでしょうね。以上補足。

2017.8.11に安渡館で芦崎の自然の2種のドジョウ、エゾホトケドジョウとキタドジョウのことをお話したときの内容が電子版に掲載されました。
ここにリンクをはります。←ここをクリックしてください。

by snowmelt | 2017-09-04 20:03 | アイヌ語地名 | Comments(1)
Commented by snowmelt at 2019-03-22 23:42
「大平は大湊駅の在る処で往昔大鍋平というた。蝦夷語のオ・ナム・ペ・タイ川尻の冷たい水のある木原の意に出づるのである。荒川の水をひいて飲料とした。(中略)旧舘跡があり、巣鷹城、または尻高城とも書かれ(中略)踏査したるにりっぱなチャシコチであった。竹花某はおそらく日本名の酋長であったろう」下北半島史・笹澤魯羊
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